おもしろい授業をするために

これだけで1冊本が書けてしまうほどのテーマですし、多くの教員が追い求めている課題です。それをこんな短いスペースで説明などできるわけがありません。簡単にまとめますが、あくまでも私のやり方・考え方であり、一般的ではないところもあります。ご承知おきください。




「授業」を定義しよう

あなたは“授業”の目的を何と考えていますか。もし、「授業はわかればいい」、「授業はできればいい」とだけ考えているのなら、授業は別に面白くなくてもいいでしょう。

実際に中学校、高校、大学とより専門的になると、授業の内容は高度になりますが、“面白さ”は少ないです。面白さは自分で見つけるものだからです。教師の話し方がうまくないから、教材が楽しくないから、授業を受ける気がしないという受け身の態度では、より高度な勉強などできないのです。

しかし、小学校ではどうでしょうか?まだ、初等教育で、学習の基礎や学校教育の入り口に来たたばかりの子ども達に、『勉強はこうすれば楽しい』、『こう取り組めば面白い』ということを示すのも私たち小学校教員の役割ではないでしょうか。

その意識を強くもつことができないと、苦手な教科や単元などで面白くない授業をしてしまうでしょう。

スポーツでは初心者には初めは楽しくて面白くて、簡単な練習メニューを与えます。そして、そのスポ ーツに慣れ、興味関心が高まり、自分で考えて練習ができるようになると、メニューは段々と厳しく、難しいものになっていきます。

小学校の子ども達の学習についての知識・技量は、スポーツでいうと入部したての初心者なのです。

だから、授業は学びの楽しさも教える場所であり、指導の工夫や教材研究が大きな意味をもってくるのです。

「時がたつのを忘れるほどの、楽しい授業をしてみてください」




教材研究の意味を考えよう

教科書を見て、各単元の内容に目を通してみても、面白いとは思わないでしょう。ドラえもんやのび太の絵があっても、そんなものにつられて授業が楽しくなるわけでもありません。

基本的に教科書とは面白くないものなのです。

特に内容が難しくなる高学年はさらにつまらないものになっているでしょう。その教科書を使って、どうやって面白い授業をするか、悩んでいる方も多いと思います。

あの無味乾燥な教科書を見ても、面白くて仕方ありません。そのためには教材研究が必要です。

何て当たり前のことを、と思ったでしょうか。しかし、教材研究で何を研究していますか?教材研究の意味はいろいろありますが、やり方や手順を知ることに重点を置いている方が多いのではないでしょうか。

もちろん、それについても学ぶ姿勢は必要ですし、そのための教材研究もとても大切です。しかし、教材研究の意義は、“方法を知るためのもの”ではなく、その教科・単元・教材の根幹となる“意味”を、“思い”を知ることだと思います。“ねらい”と重なるところも多いのですが、少し違います。

分かりにくいでしょうから、例を挙げます。

5年社会例

5年の社会科では、農業や漁業を学習します。私たちの生活を支えてくれる大切な仕事です。そこで働いている方たちの工夫や努力を子ども達が楽しく学びました。私たちの生活との関わりも理解できました。よく手を上げ、発言も多く、調べ学習も充実し、理解も深まり、テスト の点もよかったとしましょう。

その結果、子ども達が、

「あんなきつい職業につくのはどうかしている。」

「IT産業の方が儲かる。人生の敗北者だ。」

「私は絶対にあんなに汚れる仕事をしたくない。」

という感想をもってしまったら、 あなたはこの授業が成功したと思いますか?

テストの点はとてもよくて、平均点が95点だったとしても、私は失敗したと考えます。

きちんと伝えるべきことや学ばせるべきことを、私が理解していなかったからです。それを正しく理解していたら、教材の選択や使い方、授業の流れも、私の言葉かけもいろいろな意味で変わってきたことでしよう。

教材研究の不足は次の流れを作ってしまいます。

教材研究の不足・浅さ → 単元・教材の理解度不足 → 授業者の思い違い

→ 誤った教材観による授業や指導 → 子どもたちの心を育てることができない

勉強ができても点数が良くても、点数をよくするためだけに勉強をしているなら、人の心は、無味乾燥な、人間味のないものになってしまいます。そんな子が集まったクラスが、楽しく、いいクラスになるわけがありません。

点数のとれない子をバカにしたり、イジメが起きたり、結果さえよければ途中などいい加減にしたりというクラスになってしまうのです。

よい教材研究をすると

「学力の高いクラス=よいクラス」でなありません。「人間的によい成長をしている児童の集まったクラス=学力の高いクラス」になるのです。

つまり、児童の学力を上げるためには、授業や学習を通して、子ども達を人間的に成長させられるかどうかも必要になるのです。だからこそ、何のためにその教科、その単元を学習するのかを知らなくてはなりません。そのための教材研究なのです。教材の意味を深く考えるようになってから、その単元に対するアプローチの仕方が格段に増えました。

教科書の意図を深読みしたり、 教科書のおかしさについても気がつくようになったりもしました。 そうなると教科書を読むのが面白くなってきます。

『意図を逆手にとって指導しよう』『教科書にはないけど、ちょっとやってみよう』『この学習の流れは矛盾しているな。指導の手順を変えよう 』と“見える”ようになるのです。

サッカーに例えると、 シュートを打つタイミングがわかるとか、相手の動きが予測できるとか、ドリブルで抜くコースが大きく見えるとかになるのです。どうして、そういうプレーができるのかと問われても、練習したからとしか答えようがありません…。

スポーツプレイヤーの練習に当たるものは、教員ならば教材研究になるのです。

“面白い授業”を自分なりに考えてみよう

話が、大きくそれてしまいました。では改めて、面白い授業とはどんなことを指すのでしょう か。もしあなたが面白い授業を行いたいと思うのなら、『あなたが考える “面白い”とは何か』をまず考えてみてください。

それがわからなくて、“面白い”授業などできるわけがありません。

例えば、私はこう考えます。

面白い授業を構成する9つの要素

1.意見がどんどん出る

2.進んで活動する(次の問題を解きたくて仕方ない。次の活動をしたくてしょうがない。)

3.和やかな中にも、常に一定の緊張感がある

4.内容を知らなくても、知っていても、興味深く取り組める

5.内容に驚きがある

6.教材・教具が楽しく、興味を引くものである

7.常に力を試されている、挑戦されていると子ども達が感じる

8.教師の語りや口調がわかりやすく、楽しい

9.確実に力になった (または力になる)と実感できる

1~3の要素について

1と2と3は、児童の取り組む姿勢についてです。「高学年で大切にすること」ができていれば、自然と子ども達はできるようになっているはずです。というより、1・ 2・3が ないのなら、いくら教材研究をしようと工夫しようと、話術が楽しかろうと、面白い授業になりません。

授業とは受け身では成り 立たないものだからです。だから、まず、積極的に取り組める、発言できる児童の育成が先になります。これは毎日の全教育活動の中で必ず行うべきことなのです。(「つまらない」、「意味ない」、「めんどう」、「失敗は嫌だ」、「発言したくない」なんてことが横行しているクラスでよい授業ができるとは思いません。)

4~ 6の要素について

4・5・6を実践するには、教師の工夫や発想が必要になります。

しかし、前述したように、大切なのはまずは教材についての深い考察や研究を行うことなのです。

教材や単元の意図や意味を知ると、発問がガラッと変わります。授業の組み立てや全体計画の流れさえも変わってしまうのです。

教材研究をしないで(たとえしても深く考えないで)授業を行うのは、地図もなく、下調べもしないで、初めての町に旅行に行くようなものです。行き当たりばったりで(それはそれでたのしいかもしれませんが )、見逃した名所や名物を後で後悔する羽目になるでしょう。旅行なら、また今度行くこともできますが、授業はそれでおしまいです。次回は、また違うことを学習します。子ども達は、復習や残り勉強する以外に、同じ単元を学習することはありません。

教材についての研究・考察は、是非ベテランの教師や専門の先生にきいてみてください。目からうろこの教材観や考え方を示唆・教授してくれることでしょう。

逆転の発想

教材についての研究・考察ができたのなら、それを基にしてどのような活動をさせるかを考えます。人によって、そのアプローチの仕方は違うでしょう。あなたは、授業を作るときのあなたなりの方法論をもつことができているでしょうか。

私の方法論は、“逆転の発想“です。

この考え方は、東京学芸大学講師梶井貢先生から学んだ方法であり、自身の指導法の根幹になっています。(私が梶井先生の授業を見て、勝手に考えた方法論であり、梶井先生はそのような理論でないことはお断りしておきます。)

「○○小学校に、自動車工場は建てられるでしょうか?」

以前授業を見せていただいたときにに、この発問を聞いてガンと頭を殴られた気がしました。工場という子ども達にとって身近でないものを、子ども達に一番身近である学校と比較させて考えさせるのです。

東京ドーム何個分かなどという比べ方をしている資料がありますが、東京ドームの広さを具体的に実感できている人がどれくらいいるでしょうか。自分の小学校と比べなさいという質問に、子ども達はすぐに食いつき、活発な意見の交換となりました。

自分が初任の時の研究授業の折に「この指導案のどこに学習活動がありますか?」「子ども達はこれで進んで活動すると思いますか?」何度提出しても、突き返されました。本当の“学習活動“とは何か、歯ぎしりするくらい悩みました。そして、指導案の書き直しが5回目を数えたときに、ようやくOKがでました。

「これなら、子ども達が動くことでしょう。」

一度目に出した指導案とは、似ても似つかぬ授業内容になっていました。一つの単元で5つの方法を考えたわけです。しかし、その内容には雲泥の差がありました。歯を食いしばりながら、悩んだ末に考え出した指導案で、実際に授業を行うと、子ども達が目の色を変えて取り組み、非常に盛り上がった授業になりました。

その経験が、授業に関して(場合によれば学級指導でも)今の自分の全てを支えてくれています。納得いくまで考え抜くのが当たり前という考えになりました。また“生きた”学習活動を常に意識するようになりました。

その発想を常にもって授業に取り組んできたので、今では以前に比べるとずっと短い時間で、子ども達を生き生きと活動させる授業内容を考えることができるようになっています。

私流の「逆転の発想」とは、内容でも方法でも、導入の仕方でも、まとめ方でも、思考の仕方でもちょっとひねって考えるということを常に念頭に置いていることです。

『その資料、そんな使い方をするの?』『えっ、そういう方法をとるの?』『えっ、そういう方向に進むの?』『え、ここでどうして、その話をするの?』と、子どもだけでなく、大人でも予想ができないことをします。

先が読めないのですが、後できちんと伏線を回収し、ストンと結論が落ちるので、授業が楽し いみたいです。

こういう、子ども達を惹きつける授業を私たちは一生学んでいかなくてはならないのです。

7・ 8の要素について

7・8は、教師の話術です。

同じ指導案を使って授業をしても、話術が上手な人とそうでない人では、授業の楽しさやわかりやすさは天と地ほども違います。

たとえば、

「去年の6年は、クラスの半分以上がこの問題を間違ったんだよね。君たちかなり頭の回転がいいけど、できるかなあ…。」

と投げかけると、子ども達はプライドをかけて必死で取り組みます。子ども達に挑戦心を起こさせ、あきらめないという気持ちをおこさせるのです。

「この問題をやってください。」

と言うだけに比べると、その効果は絶大です。

「ギブアップしてもいいですよ。そのかわり、先生の言うことをきいてもらおうかな?」

絶対に「ギブアップ…」と子ども達は言いません。意地でもノートに答えを書いてきます。たとえ間違っていても、一生懸命考えたことは次につながってきます。

このようにちょっとした一言で、子ども達のやる気を起こしたり、理解を深めたり、雰囲気を楽しくしたりすることができるのです。

意欲をおこさせる話術の例

「比例をきちんと勉強するとね、未来予測ができるようになるんだよ!そうすると失敗をへらせたり、無駄をなくしたりができるようになるんだよね。すごい力を身につけられると思わない!?」

理解を深めさせる話術の例

「日本の歴史と小学生の成長は似ています。奈良時代は、中国のまねの時代です。つまり1年生みたいなものです。和風文化を作り出した平安時代は、自分のやり方を試し始めた2年生ですね。鎌倉時代の武士は、元気でやんちゃで暴れん坊の3・4年生と同じだね。じゃあ、室町時代は?まだ武士の時代だけど、わび・さびの文化でしっ?ほら高学年になって落ち着いてきた君たちみたいなものじゃないの!そうするとだ、しばらく経つと反抗期かな。これが戦国時代でしょ。そのあとは平穏な江戸時代!君たちもそのうちに平和で安らかになるのかな?」

いかがですか?何か楽しげではありませんか?話術の巧みさは、教材研究の深さと決して切り離すことはできません。どんな職種でも、話の上手い人は、話術自体はもちろんですが、同時に語る内容に対する知識や理解が深い人なのです。

だから、話したいことがたくさんありますし、自信もあるので、余裕も生まれてきます。アドリブもとっさに出るのです。

つまり、きちんと理解していないと語ることなどできな いのです。説明するだけでいっぱいいっぱいになってしまうのがオチです。教材研究は、その意味でも非常に重要と思ってください。

9の要素について

最後の9は、評価です。

これができていないと、全ての努力は水泡と帰すかもしれません。学力(実力) がついた状態は、「理解ができた」上で「正しく表現できた」ときです。

塾に行っている子の多くは、『理解ができていなく』て、『正しく表現できる』場合が多いです。(知識、公式を理解抜きで覚える子の多いこと…。)

わかっていないので、時間がたつと忘れたり、応用問題どころか、基礎問題も間違ったりする ことが多いです。この子たちの一番の問題は、分かっていると思い込んでしまい、授業を聞かないことです。

授業をきちんと聞く・発言する習慣が育っていないので、難しい学習(高学年・中学校)のときには、理解ができなくなるのです。全てわかっていても、きちんと聞くことができる子は伸びます。

「先生が、サッカーのシュートのやり方や上手くなる方法を説明したら、3分で理解できると思います。でも理解ができたからといって、シュートが入るわけじゃない。そのためには、たくさんの練習が必要となります。だから努力は大切なのですよ。」

小学校教育は、理解の方に重点を置き過ぎている感があります。進学塾と反対の状況なのです。

例えば、算数の授業で、理解の方に時間をかけ過ぎて、習熟に時間をとれない場合がありませんか?うがった見方をすれば、理解は二の次にして、結果だけを求める受験塾への反発があるのかとさえ思ってしまいます。

本来は、理解ができることと正しく表現できることは車の両輪であるはずです。

どちらが欠けてもよくないです。両方そろって初めて、力が発揮できるものなのです。理解に時間をかけ過ぎて、技能の習熟に時間がかけられないのでは、子ども達は自分の力を実感できないし、自信ももてません。塾の方がいいと子どもや保護者が言うのは当然かもしれません。できるようになったと自信をつけさせてくれるのですから。

ぜひ、子ども達に“力”がついた、できるようになったという実感がもてるような授業をしてあげてください。子ども達は進んで学習に取り組むようになります。

サッカーでシュートが入るようになったり、他のスポーツや技能習得が必要な活動で自分の体をうまく操れるようになったりしたら、面白くなって、よリー層熱心にやるようになったことをあなたは覚えているはずです。それと同じことです。

話術を磨こう

さて、ここまでまとめておいて、身も蓋もないことを言います…。

何度も言っているように、面白い授業にするには、結局は、話術がものをいいます

同程度の知識をもった人なら、話術の上手い人の方が、はるかに人を引き付ける授業ができます。同程度の資料活用能力のある人なら、話術の上手い人の方が、より効果的なタイミングで資料を提示できます。

話術の上手い人は、緩急や、強弱、間の取り方なども絶妙なのです。

それは資料活用能力や発間のタイミングにも影響を与えますし、子どもたちへの発言に対しても臨機応変。当意即妙な答えを言うことができます。

聴衆者を惹きつけ、時に笑わせて、押さえるべきところは押さえ、考えさせて、話をまとめることができますか?難しいですよね。今は無理でも月日が経てば、いつかできるようになると思っていませんか?年月の積み重ねも助けにはなりますが、話術を身につけるためには、たゆまぬ努力と研鑽が必要なのです。

だから、日々、教師は話術を磨く必要があるのです。話術を磨くためにこれからどんなことをしようと思っていますか ?