体育科の歴史と課題




体育科の歴史

教育としての体育が制度として位置づいたのは、1872年の学制発布からである。

それ以前は、農民の子供は村落共同体の中で親の労働を手伝うことから次第に一人前の農民に成長し、職人や商人の子供はそれぞれ独自の職業世界で修業を行い、職人や商人として自立していった。また、武士の子供藩校での教育を受け、武士として成長していった。

このように、それぞれの親の職業を独自の形で学びながら自立していった。ところが、近代国民国家の成立は、封建制を廃止して自由と平等を標榜とすることになり、したがって階級を廃して誰もが同じ教育を受ける機会を与えることが必要となった。一方、徴兵制がしかれて兵役が義務付けられ、同時に近代国家においては、戦争に耐えられる強い国家を樹立するために兵役だけでなく、産業を興すことによって経済的にも強い国家を作らなければならなかった。

第一次世界大戦以前の体育は、このような背景のもと軍事教育に近い形式で、一斉に体を鍛える(強い体を作る)ことや一斉に同じ動きを身につける(他人と違った動きをしてはいけない)ことを目的として行われ、また、体育教師もその目的のための職業観や職業意識で体育に臨んでいた。しかしながら、戦争を体験し、二度と戦争を起こすまいといった決意のものに生まれたのが、それまでの教師中心の号令によって子供を他律的に動かす授業から、子供を中心とした子供の自発的な学習を促す授業に変化した。集団行動に基づき、子供たちが一斉に同じ動きを行うことから、スポーツという教材を使い、多様な運動を行うように変化していた。

スポーツ中心の体育が取り入れられたことにより、教材が存在し、その教材の提示を教師が行う形とったが、具体的な指導法は確立されておらず、その成果やフィードバックといったことがなされていなかった。

以降、高度経済成長という背景のもと、生活の豊かさを手に入れると共に、スポーツやレジャーが生活における重要な文化財として位置付けられ浸透していった。そのため、スポーツを他に還元することなくそれ自体を楽しむことが主流になってきた。スポーツそのものの内在的価値を認め、生涯スポーツにつながる楽しい体育が展開されるようになってきた。競争して勝つ楽しさ、負ける悔しさ、達成する楽しさ、克服する楽しさ、模倣する楽しさをすべての学習者にその学習者の今ある力に応じて個々に対応する授業が展開されていった。




体育科の課題

今日の体育科の課題としては、時代の変異と共に裕福になる過程の中で、運動量の不足(ゲーム・テレビなどのメディアの発達)や都市開発による遊び場、自然の減少などにより、普段から体を動かす機会や経験が絶対的に少なくなっている。近年では、携帯ゲームの発達により、公園に出ても皆でゲームをするなどといった光景もよく見るようになった。また、少子化の旨、兄弟数の減少により外に出て遊ぶといった活動の減少なども挙げられる。

体育としては、運動への関心や自ら運動する意欲、各種運動の楽しさや喜びを味わえるように自ら考えたり工夫したりする力、その基礎となる運動の技能や知識など、生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の育成が十分に図られていないと思える。また、運動する子どもとそうでない子どもの二極化への指摘があるとともに、子どもの体力の低下傾向が深刻な問題となっている。

そのため、小学校では基礎的な身体能力を身に付け、実生活において運動を豊かに実践していくための資質や能力の基礎を培うとともに、身近な生活における健康・安全に関する内容を実践的に理解できるようにすることを重視するべきである。普段の生活の中積極的に、体を動かす活動や遊びを行える意欲を促す為の授業を取り入れるべきであると思う。

体育の時間に休み時間などにも行えるような運動(ドッジボール等)を取り入れ、運動の楽しさと技術、そしてまた休み時間での活動を体育の授業へのフィードバックを行うことにより、相互に技術的にも成長することができると思う。具体的には、ルールを教える→休み時間にやってみる→授業で扱うという流れで新しい発見があるはずである。

球技による集団遊びにおいて、チームを作ることによる人間関係の形成や、単純に球技の技術の向上を経験することがある。また、ボールやコート(遊び場)の貸出は気軽に行えるような環境設定も重要である。課題を自ら見つけさせ、子どもが自分で、もう少し努力すればできそうなこと、頑張って挑戦してみたいことを設定させることによりできるようになったことを評価していくことで運動の楽しさを味わわせていきたい。例えば跳び箱などの技術的な技のひとつを、技能の習得をめざして段階ごとの練習の場・時間を設定し、その個人に合った最適な指導法により技術の習得、それによる達成感を味わうことにより、新たな技術・技能習得の意欲がわき、体育の授業以外での練習・活動も促されることであろう。

生涯スポーツに向けて

体力をつけるために一斉指導で教師は号令だけ出せばよい、あるいは、身体の動きを分解し、どの学習者も共通に同じスポーツの技能を身につけるために教師が技術を細かく教えればよいということではなく、学習者が個々の能力に応じてスポーツを楽しみ、その結果、体力が付き、技能が身に付き、スポーツの楽しさを十分に学ぶことにより、生涯スポーツを行おうとする能力を身につけさせることが重要であるとおもう。運動の技術そのものではなく、楽しさを教え、練習による技術力の向上などは自らの試行錯誤の上で成長させていきたい。楽しさを教えることにより自発的な練習や、遊びの中での成長を促し体育という教科にとらわれない指導が必要である。