教師論




学制

1872(明治5)年8月に「学制」が頒布され、近代学校教育制度がスタートした。当時は教員数が確保できておらず、小学校の教員の養成は、各府県に設置された師範学校で行い、中等学校の教員の養成は、高等師範学校が主に行い、これを教員検定制度が補う形となっていた。

その養成は基本的に閉鎖的な直接養成制度であり、国の政策が直接養成機関に及ぶ仕組みになっていた。しかし、この師範学校制度は教員の需要に対応できず、そのため、教員検定制度(小学校教員は1978<明治7>年、中学校教員は1884<明治17>年)が導入された。




小学校教員心得

1881(明治14)年に文部省は「小学校教員心得」を定め、その中で教員の基本的性格を記し、1886(明治16)年には師範学校令が制定され、当時の文部大臣、森有礼の天皇制国家を担う臣民育成を教師に期待し、その気質として、「順良信愛威重の気質」が示され、兵式体操と寄宿舎における兵式訓練によってその育成が図られた。

聖職

これにより、その後教職を「聖職」とする教師聖職論は、「師範タイプ(偽善・独善・卑屈といった精神特性)」と一体になって展開される。明治の始め、小泉信三が著わした「ペンは剣よりも強し」で言論に関わるものの責任を明らかにした精神を信奉し、今日では、それを武器とし、錦の御旗とするマスメディアによって、汚職、脱税、いじめと自殺などが取り上げられ、宗教以外の職業に従事する人間を聖職者とよぶ声は日増しに小さくなってきている。

現在教師を捕らえる目線は教師聖職者論、教師労働者論、教師専門職論の三つがある。

教師聖職者論

教師聖職者論は、教師は清廉高潔とされる職業に従事しているとする考え方で、ひたすらに教育という崇高な使命に邁進すべきであり、献身的な職務態度を要求され、営利を追ってはならず、薄給に甘んじてこそ「道」を説けるのであり、積極的に奉仕的実践をすることが理想とされている。

教師労働者論

教師労働者論は、教員組合運動を基盤として広がり、教師も人間としてその生活を充実、向上させる要求を持つことは当然であるという考え方であるが、以後において教員が大量に採用され、教員の質が問われるようになった。

教師専門職者論

教師専門職者論は、高い教養と能力の上に、特殊な専門技術が積み上げられた職業という考え方で、実際、1996年「ILO・ユネスコ共同勧告」の教師の地位に関する勧告では、「教師は、専門職でなければならない」と規定されている。

戦前の教員養成では、学校教育の量的拡大に伴う教員増加(1897<明治30>年までは小学校教員が、それ以降は中学校教員が増加)が起こる。当時の教員は低給与であったが女子にとっては相対的に恵まれており、教員の増加は女教師が大多数を占める。また、教員の低給与は男子の退職・転職の原因となり、師範学校入学志願者の減少をもたらしていた。

教育職員免許法

1949(昭和24)年の教育職員免許法が制定され、以来の改正はあるが、教員免許状取得の基本条件が、大学に所定の期間在学する、あるいは大学を卒業して学士の学位を得ることにより基礎資格を得、かつ大学において法律に定める単位を修得する、こととなった。

戦後教育改革期における師範学校批判というのは、強烈で、広範囲なものだった。師範学校制度そのものへの批判も根強かったが、批判の中心は師範学校と師範卒教員の実態についてで「師範タイプ」という言葉に集約されるように、人物像の一様性、視野の狭さ、国家目的への盲従など、戦争責任まで押し付けられる仕儀となってしまう。

その結果、あらかじめ教職を志望する者のみをグループ化することの弊害が、その後の教育論において一つのパターンとなってしまう。「総合大学」での教員養成の方がさまざまなタイプや志望の学生と交流できるので優れている、という見解が絶対化されているようにみえる。

戦前の教員育成制度が「閉鎖性」であったのに対し、戦後の養成は「開放性(教員免許状取得の条件が示され、教員養成課程の開設を希望する教育機関に教員免許状取得の条件となる科目と単位を用意させ、そのような養成課程を設置している教育機関ならどこででも教員免許状申請の条件を満たすことができる)」を採用している。

この開放性は教員育成の教員数での非計画性、教員養成が特定の機関に限定されない開放性、および多様なタイプの教員を確保できる多様性を持っている。