自我意識の発達
自我を育てる教育は、その自我意識の発達成長の時期に合わせて、意図的な取り組みを必要として行われなければならない。それぞれの発達の時期において重要と考えられるかかわり方・指導のあり方、ないし子どもをめぐるまわりとの関係性のあり方を述べる。
乳児期および幼児期前期
まずは、乳児期および幼児期前期の最重要課題として母子間の基本的信頼感を確立する。人格は人間関係の中においてつくられる、つまり、人間は対人関係の中で成長すると考えられるようになってきた。
他者を信頼し、対ひととの関係を築いていく気持ちが育つ基盤がこの母子間の基本的な信頼関係であると言える。親しい大人ないし親との間の基本的な信頼関係は、子どもにとって他者を信頼すること、そして他者との共存を可能としていく基盤である。他者を信頼すること、つまり人間は信頼するに値するものであるという基盤の上に、子どもは自分に対しても信頼を持てるようになっていく。そして、自分を大切にする人間へと育っていく。
次に自分に対する肯定感や自信を感じ取る段階に入る。子供は歩行の獲得とともにしばしば落ち着きなくよく動き回る状態が見られることがある。
いろんなものに興味を示す子ども、と捉えるが、しだいにその域を越え、落ち着きのなさが気になりだし、行動をとめようと、「ダメ」の声かけがしだいに多くなってしまう。「ダメ」の多用をはじめ、子どもに対する否定的な対応が目立ってしまうと、子どもの側においては、自分の行動が阻止されることから、自分に対する肯定的な感情が育ちにくくなり、しだいに自分自身への自信も失っていく。
目が離せない他動な状態にあるとき、その行動をある程度制止することは安全上あるいは社会的な観点から必要であるが、子どもの心理発達上で自己への肯定的な感情が育たないままであることはよくない。そのため、遊ぶなど場所を決めて子どもの行動を認めるようにする必要があり、決められた場所での子どもの行動のうち、適切であるものについては充分にほめていく必要がある。
幼児期
幼児期には、子供は徐々に養育者から自立し始めるが、子どもの心身の発育・発達が著しく、また、身体能力の基礎が形成される。
しかし、一人一人の子どもの個人差は大きいため、教育に当たっては、発達の過程や生活環境など子どもの発達の全体的な姿を把握しながら行う必要があり、その自立を助けるのに重要な役割を果たすのもまた、養育者である。
自分の欲求や意見・考えを表現し、行動する自己主張・実現と、それを抑えなければならないときに抑制・制止する自己抑制は、自己制御の2つの側面であり、母親の介入・過保護の度合いが高いと子供の自己主張・実現や自己抑制の発達を妨げることが示唆されていることから、よほどの危険がない限り、子供の行動に手を貸したり介入したりするのはできるだけ避け、少々のいたずらや失敗を恐れずに、自発的な試みや自由な冒険を許すことが、子供の自主性・自立性の発達を促すと推測される。
幼児期とその後の就学期にかけては社会的なしつけが始まる。生後4歳ごろからは、前頭葉の血流量が頭頂葉その他の脳部位よりも多くなることが観察される。前頭葉、特に前頭連合野が行動の制御にとって重要な働きをしている。
この働きこそが自我の確立に関連しているとするなら、この時期から行動を社会的に適切なもの、対人関係において適当なものへと近づけて行くことができると考えられる。これが、いわゆる社会的なしつけと呼ばれるものであり、社会的理性を育てていく素地となる。
子どもに対する社会的なしつけの取り組み、教えられる規範的な行動や態度は、子どもとの間の基本的な信頼関係が充分に築かれているなら、比較的入りやすい。また、しつけと言った場合、それは大人がやりやすいように子どもの行動を制御するために行われるものでは決してなく、子どもが独り立ちしたときに、親がいなくても、社会において適切な行動を行えるようになされるものであることを留意しなければならない。
幼児期以降
幼児期以降には現実世界との直面を通しての自ら情緒的な不安定状態から立ち直る経験が必須である。ストレス耐性を身につけさせていく取り組みは非常に重要である。自我成長のひとつの大きな柱は、自分の情緒をコントロールできることであり、これは、社会的理性や自己の行動コントロールと極めて密接な関係にある。たとえ情緒的に不安定になっても、自らの心の働きで立ち直れるようになる。あるいは、そのような心の働きが育ってきていない場合は、自ら立ち直る経験を意図的、計画的にさせていくことが大切である。
自我を確立していくためには、何も特別な療育プログラムを用意し、それを忠実に守って行わなければならないということはない。人間が人間らしく生きていくために、人間のみに与えられた人格の完成に向かって歩むことが求められ、人間らしく生きていくためには、上に述べたような取り組みが自然と行われる「普通の環境」が重要であると考える。